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文学のまち松山

坂の上の雲

明治時代、俳句や文章を改革し日本独自の文学を形作ろうとした正岡子規。
日清・日露戦争において陸海軍の軍人として活躍した秋山好古・真之兄弟。
司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は、この3人の生涯を中心に日本が近代国家へと成長していくすがたを描いています。

正岡子規

写真:正岡子規

(1867~1902)

慶応三年(1867年)下級武士正岡隼太の長男として生まれました。本名は常規(つねのり)、幼名処之助、通称升(のぼる)。

ひとつ年下の秋山真之とは幼い頃からの親友で、上京してからは東京大学予備門(後の第一高等中学校)でともに学びました。その後、進学した帝国大学を中退し日本新聞社に就職、生涯ジャーナリストとして記事を書き続けました。

子規は新聞『日本』と俳誌「ホトトギス」を基盤に、日本の近代文学革新に着手し、夏目漱石などの友人、高浜虚子ら後輩たちとともに現代にまでつながる日本文学の基礎を作り上げました。

秋山好古

写真:秋山好古

(1859~1930)

松山の貧しい下級武士の家に生まれた秋山好古は、生活費と授業料がいらないというだけの理由で陸軍士官学校へ入学し、その三期生のとき騎兵科を志願しました。その後フランスに留学して騎兵戦術を研究し、日本で生まれたばかりの騎兵を育て「日本騎兵の父」と呼ばれました。日露戦争ではロシアのコサック騎兵とも戦い、日本の勝利に大きく貢献します。

軍人として一線を退いた後は故郷松山にもどって、私立北予中学校の校長を亡くなる年までつとめ、青少年の育成に力を注ぎました。軍人でありながら優れた教育者としての一面も持ち合わせていた人物です。

秋山真之

写真:秋山真之

(1868~1918)

好古より9歳年下の真之は、正岡子規と幼なじみで親友でした。子規と同じように上京し東京大学予備門で学びましたが、その後兄の奨めもあって海軍兵学校へと入学します。海軍軍人へと転身した後、古今東西の戦術をよく研究し、そのことは後に日露戦争における作戦立案でいかされることになります。

日本海海戦のときの「本日天気晴朗なれども波高し」という電文は有名で、真之の軍人としての冷静な観察力と文学的素養の高さをうかがわせるものです。


【作者:司馬遼太郎 1923~1996年】(正しい表記名はしんにょうの点は2つです。)

大阪生まれ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960年「梟の城」で直木賞を受賞しました。1966年に「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞を受賞したのを始め、多数受賞作品があります。「街道をゆく」などの連載半ばにして急逝しました。享年72歳。司馬遼太郎の小説は彼自身の歴史観で物語られ、その歴史論は小説の世界だけでなく多くの文化人の間でも認められています。